日本史 2014/4-2011 Yuji.W

☆古代日本を作った人々☆

◎ 古代日本が多くの外国からの移民によって作られたというのは、21世紀の常識となった。それぞれの移民はどこから来たのか、どのように古代日本を作ったのか、まとめてみた。

 <参考図書>
「興亡古代史」小林惠子(こばやしやすこ) 文藝春秋 1998年
「古代日本正史」原田常治 同志社 1976年
「消された覇王 伝承が語るスサノウとニギハヤヒ」小椋一葉 河出書房新社 1988年
「最新邪馬台国論争」安本美典 産能大学出版部 1997年
「大和誕生と神々」田中八郎 彩流社 1996年
「扶桑国王蘇我一族の真実」渡辺豊和 新人物往来社 2004年
「日本百済説」金容雲(きむよんうん) 三五館 2011年
「蘇我氏の正体」関裕二 東京書籍 2004年
「シルクロード 渡来人が建国した日本」久慈力 現代書館 2005年
「西域から来た皇女」小林惠子(こばやしやすこ) 祥伝社 2005年
「もう一度学びたい古事記と日本書紀」多田元 西東社 2009年

☆日本人のルーツ☆

[1]20000年前 東南アジアから O型 南方系モンゴロイド(古モンゴロイド)
身長が低い。ナイフ型石器、基本的単語。

[2]14000年前 バイカル湖から サハリン経由 B型 ブリヤート人
12000年前、朝鮮半島経由で日本へ。
身長が高い。細石刃。北海道へ。
主語+目的語+述語」という文法を導入した。
末っ子が、相続する。馬に乗る。鉄の採用が早かった。

[3]6000年前 中国華南地方から A型 照葉樹林帯文化

[4]5000年前 華北・朝鮮半島から 渡来系弥生人

[5]2500年前 江南から 水稲耕作技術

[6]その後も、朝鮮、中国、西アジアからも移住があった。

Y染色体を調べると、父親のルーツがわかる。日本人の父親は、朝鮮人や中国人と似ているのだが、それよりも、モンゴル人と似ている。しかも、長い間、その特徴を維持している。

ミトコンドリアを調べると、母親のルーツがわかる。日本人の母親は、朝鮮人や中国北東部の人とよく似ている。

日本古代史の大きな流れ

日本古代史は、百済系移民vs非百済系移民(新羅を中心に)の争いだ。最後に、百済系移民が勝ち、その後の日本を支配した。

[1]元日本(南九州、出雲、奈良、越、尾張、吉備)…非百済系

[2]ヤマト(北九州から奈良へ)…百済系

[3]507年継体天皇、蘇我氏、秦氏、聖徳太子…非百済系

[4]645年乙巳の変(大化の改新)、38天智天皇(626-671)[668-671]…百済系

660年新羅が百済を滅ぼす。663年白村江の戦い…[倭・百済の残留・高句麗] vs [唐・新羅]

[5]672年壬申の乱、40天武天皇(?-686)[673-686]…非百済系

[6]690年持統天皇、藤原氏、以降の天皇…百済系

ただし、百済系は、非百済系を排除しようとしていたが、非百済系は百済系と共に国を作っていこうとしていた(自分達だけでは日本を支配できない、ただ、自分達の生きる権利は欲しい)という感じがする。

百済

■ ツングース扶余族。346年-660年

百済の王族は姓を扶余(ブヨ)と名乗った。5世紀後半からは中国風に一字姓の(ヨ)も名乗るようになった。言語や服装などが高句麗とおおよそ同じであった。

前方後円墳がある。

7世紀、[百済&高句麗]vs[新羅&唐]。660年、百済滅亡。「百済系にとって、新羅系憎し」になる。

663年白村江の戦い。倭&百済残留兵が唐に負ける。百済の故地は新羅の支配下に入った。

百済系

卑弥呼 江南の巫術者・許氏

1神武天皇-10崇神天皇-

38天智天皇(626-671)[668-671]

百済王余豊璋(よほうしょう) or 百済王子翹岐

天智の「智」は、中国の殷(いん)の紂王が死ぬときに身につけていた宝石の名前で、次の「武王」に滅ぼされることを暗示している。

660年百済滅亡。

百済王余豊璋(よほうしょう)

百済の王子で人質として631年来日。663年、白村江の戦いで百済に戻るが、味方の将軍鬼室福信(きしつふくしん)を殺害し、百済滅亡を招く。このあと行方不明。

41持統天皇[690-697](天武の妻・天智の娘)

天武の妻。天智の娘。天武系ではなく、天智系(百済系)として生きたようだ。

藤原氏

藤原鎌足(614-669)

百済の大官智積 or 百済王余豊璋(よほうしょう)

100年以上、日本は非百済系に支配されて来た。その前は、百済系が支配していた。31才で天智天皇と共に、乙巳の変(大化の改新)を起こし、百済の支配を復活させたかった。しかし、46才で、祖国百済が滅びてしまう。49才、白村江の戦い(663年)。復興にかけるが、願いかなわず、また、日本の地(天智天皇)も危うい。後を息子達に託した。

<生まれ>飛鳥大原。鎌足ご使用の井戸がある。 <住まい>大阪三嶋

<死去>669年、55才、 「藤原」の氏をもらい、最高冠位・大織冠を得る。大織冠をもらったのは2人だけ、もうひとりは余豊璋。

<寺>大阪の広陵町の百済寺

<墓>談山神社の奥、奈良盆地を一望できる、一等地。

藤原不比等(659-720)(藤原鎌足の次男) 「天智の子(興福寺縁起)」。

659年生まれ、720年死去。10歳の時に、父が死去。壬申の乱672年が13歳。
690年持統天皇が即位、持統は45歳、不比等は31歳。

700年(文武天皇四)、41才、刑部(おさかべ)親王とともに「大宝律令」の作成にかかわり、翌年大納言、708年(和銅元)49才、右大臣。

さらに律令の改正に専念し、「養老律令」を完成させた。

秦 しん

秦(しん) 紀元前778年 - 紀元前206年紀元前221年に中国を統一。

西戎(せいじゅう)の一派であったという説あり。

紀元前221年に斉を滅ぼし中国を統一し、始皇帝と名乗った。

匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。

始皇帝は不老不死を求め、徐福は船で日本に向かったとされている。

西戎(せいじゅう)

中国の西の遊牧民族。秦は元々戎の一派であるという説もある。最後には秦に吸収されたと見られる。一部は分散して匈奴に入った?

チベット系?テュルク系?

テュルク諸語/突厥諸語(とっけつしょご)

中央アジア東ヨーロッパシベリアで話される諸言語の総称。

分布の広大さに比べて言語間の差異は比較的小さい。目的語や述語に助詞や活用語尾が付着する(膠着語こうちゃくご)

母音調和(母音が数種類に分かれ、一語中に2種類の母音は存在しない)

主語-目的語-述語モンゴル諸語、ツングース諸語とテュルク諸語とこれらとをあわせてアルタイ諸語という。

秦氏 はたし

「応神天皇14年(283年)に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となった(書紀)。」

加羅(伽耶)または新羅から来た?

「景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人。(佐伯好郎1908年)」

*景教のお寺を中国では、大秦寺(だいしんじ)と呼んだ。

山背国葛野郡太秦(うづまさ)を本拠地とした。その後、神奈川県秦野などへも進出した。

弥勒菩薩は、新羅にしか生息しない種類の赤松で彫られている。住居は新羅様式だった。

テュルクの技術(製鉄、武器製造)と新羅の技術(土木、建築、養蚕など)をヤマトに持ち込んだ。松尾大社、伏見稲荷大社などの社家となった。

秦河勝

聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建した。

☆ネトリウス派、景教☆

古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれた。431年、エフェソス公会議において異端として排斥された。唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちアッシリア東方教会が継承した。

キリストは神性と人性において2つ位格であり、マリアはあくまで人間的位格(人格)を生んだに過ぎないとした。

中国へは、唐の太宗の時代にペルシア人司祭「阿羅本」(アラボン、オロボン、アロペン等複数の説がある)らによって伝えられ、景教と呼ばれた。景教とは中国語で光の信仰という意味である。景教教会を唐の時代、大秦寺(だいしんじ)という名称で建造された。

浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺には、景教の聖書の一部の漢訳である『世尊布施論』が所蔵されている。

☆月氏 がちし げつし☆

紀元前3世紀から1世紀ごろ、東アジア、中央アジアの遊牧民族。

紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。

☆新羅☆

356年-935年朝鮮半島南東部の国。

そもそも、辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国。

「新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)。(新撰姓氏録)」

脱解:57年、62才で新羅第4代王。

「倭国のタバナ国(丹波?)の王の子。辰韓(しんかん=>新羅)に流れ着いた。「昔せき」という名字になった。(三国史記の新羅本紀)」

59年に、倭国と友好関係を樹立。スサノウ=脱解?

3世紀ごろ、半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併せて発展していった。

広開土王碑や中原高句麗碑により、時期によっては倭や高句麗によって一定の支配を受けていた。

4世紀後半から6世紀前半にかけて、金冠その他の金製品や西方系のガラス器など特異な文物が出土する。中国文化よりも北方の遊牧騎馬民族(匈奴・鮮卑など)の影響が強かった。

武烈王(金春秋)

602年? - 661年 新羅の第29代の王(在位:654年-661年)

高句麗への救援要請が失敗した後、647年(大化3年)には倭国(日本)へ使者として赴き、倭国の動向を見極めるとともに百済への牽制を図ろうとした。

唐との関係の強化を果たし、三国間で孤立していた状況の打開に成功した。

654年、即位。

655年、高句麗・靺鞨・百済の連合軍が攻め入って、北部辺境の33城が奪われた。

659年、百済が国境を侵して攻め込んできた。

660年、唐と新羅が百済を滅ぼす。

661年、唐と連合して高句麗を滅ぼそうとしたが、病死。 

663年、白村江の戦い

668年、高句麗を滅ぼす。

670年-、旧百済領を占領していた唐とその支配権をめぐって争う。

676年、唐軍を半島から追い出した。

天武天皇の即位673年から780年までは、日本との関係は比較的良好であり、双方の間で遣新羅使、遣日本使が30回以上送られている。

2001/04/19 平群町椿井の三ツ池遺跡の区画溝(七世紀末―八世紀初め)から、朝鮮半島の新羅製の緑釉(りょくゆう)陶器(七世紀初め-七世紀中ごろ)の破片が出土。貴重な輸入品である緑釉陶器は、これまで飛鳥寺や飛鳥池遺跡などの公的な限られた遺跡から出土している。外側全体に明るい緑色の釉薬がかけられている。破片の上段には水滴形、下段に半円のスタンプを押したような「印花文(いんかもん)」が施され、七世紀初めから中ごろのものと判明。高安山の山頂から東へ約4km。

☆蘇我氏 そがし☆

蘇我氏は百済出身という説もあるが、そうでもない。ここでは、非百済説をとる。

「武内宿禰を祖とする(記紀)。」

☆ゾロアスター教☆

始祖ザラスシュトラ(紀元前1000年前後)。ドイツ語読み「ツァラトゥストラ

古代バルフ(アフガニスタン北部)に埋葬された。インド・イランでの古代宗教を整理した。

善と悪の二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている。

「火」を尊んだため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれ、また?教(けんきょう)ともいう。

「善の霊(知恵の主アフラ・マズダー)が生命、真理などを選び、それに対してもう一方の対立霊(アンラ・マンユ)は死や虚偽を選んだ 。

ユダヤ教を母体としたキリスト教もこれらを継承していると言われる。さらに、大乗仏教において弥勒信仰と結びついたり、またマニ教もゾロアスター教の思想を吸収した。イスラム教もまた、ユダヤ教やキリスト教、マニ教と並んでゾロアスター教の影響も受けており、聖クルアーンにもゾロアスター教徒の名が登場する。

ゾロアスター教は唐時代に中国へ来ており、また日本には吐火羅舎衛などのペルシア人が来朝していることから、なんらかの形で日本にも来ていたらしい。

新義真言宗の作法やお水取りの時に行われる達陀の行法は、ゾロアスター教の影響を受けている。

「飛鳥時代の日本にゾロアスター教が伝わっていた。斉明天皇はその信者であり、マギの秘術を使ったために『日本書紀』で神秘的な存在として描かれた。飛鳥の酒船石は神酒(ハオマ)を製造する為のものであった。(松本清張1970年代)」

非百済系

15応神天皇 五胡十六国の中の秦の一族・苻洛

16仁徳天皇 高句麗の英主・広開土王(好太王)

26継体天皇[507-531]

越前出身、大和に入るまで20年かかった。以後7世紀半ばの第37代天皇まで、約150年間は継体天皇の子孫が天皇。それをうち破ったのがの天智天皇だ。

聖徳太子 中央アジアの遊牧民・西突厥の達頭可汗。

40天武天皇(?-686)[673-686]

天武の「武」は、殷(いん)の紂王を滅ぼした周の武王の「武」からきている。父は高向玄理。母は斉明天皇。都を蘇我氏の本拠地の飛鳥に置いた。

役行者(えんのぎょうじゃ) 円小角(えんのおづぬ)

葛城山で修行し、修験道(しゅげんどう)を開く。壬申の乱の直前、後の天武天皇を助けた。持統天皇の時に、伊豆へ流された。行基(ぎょうき)道鏡(どうきょう)も葛城山で修行した。

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